どうも!!
豆乳首ゴメスです。
ちょっと今回の記事は重い話であり、そういうのが苦手な人は是非ともこの段階でブラウザバックをして頂きたい。
〜はじめに〜
以前の記事にて触れました、白梟の宿屋所属Take-cが1月19日早朝に、長きに渡る闘病生活を終えて旅立ちました。
この事について、今から自分の思うことを書いていくわけだけど、勿論そのTake-Cの伴侶たる我が血盟のゆんめとは相談をしました。
ありきたりな言葉だけど、自分たちの絆について、ブログの記事を通して多くの人に見てもらう方が我々や故人の願いに近いという想いから、そのように行動をしています。
正直に言えば僕自身に大きな迷いがあった上での判断です。人の死を見世物ように扱うつもりは一切ないことは当然ながら、人から見ればそのように見えてしまうかもしれないという懸念がありました。幸いにも幾分も前からはてなブログにお金を払って、このブログには一切の広告等が載らないようになっていますし、ちゃんと僕やゆんめの意図が分かる人にだけ分かってもらえればそれで構わないと判断しました。
またそういった心境から、頂いた感想やご意見にはお応えしかねる場合があります。
以下は
こちらの記事の続きの内容です。
以下の内容をお読み頂けるなら是非とも前回記事分もお願い致します。
なんて、我儘で申し訳ありません。
〜Take-Cとは〜
それでもお付き合い頂ける人には是非とも、立派に生き、立派なものを遺し、立派に旅立って行ったTake-Cと僕の物語の一部をお伝えしたい。
僕は誰か彼かを自分にとって特別だとはあまり言いたくない。それはこれからもきっとその人とは繋がり続けるだろうし、自分に関わる遍く全ての人が自分にとって特別になり得るからだ。
だけれどこのTake-Cとその嫁ゆんめは僕にとって客観的な事実として特別だった。
前の記事にも書いた通り、Take-Cとゆんめは僕と嫁が初めてオフ会に参加するとなった際に、初めて会った人物なのだから、そんな人は他に決して存在出来ない特別な人だ。
初体験の相手、いや別にそういう意味ではなくとも、そうであっても、初体験の相手を忘れてしまう人などそうそういないし、当たり前だけど初体験の相手は二度と新しくは現れない。
僕はほぼ3年前になる当時、今ではなぜだったか説明できないが、オフ会に対して嫌悪感があった。
嫁が無理やり手を引き僕を家から連れ出したあとも、「危ない人が来るかもしれない」とか「楽しくなかったらすぐ帰ろう」とゴネにゴネていた。
もちろんご存知の通り、それは杞憂ではあったけれど、逆に言えばこの時にTake-Cとゆんめではなく、僕にとって印象の悪い人がやって来ていたとしたら、こう見えて(いや、そう見えてるかもしれないけど)狭量で頑固な自分は「ほらやっぱりオフ会なんてろくでもない物だ」と決め付けてその後一切そういったものに参加することはなかったであろう。
僕は運命論者ではないけれど、Take-Cとゆんめに会わなければ僕は人と人の繋がりについて、見識が狭いままの運命だったに違いない。
二人との出会いが僕の運命を変える、正しく運命的な出会いだったと言えると思う。
二人との出会いの瞬間は今でも克明に思い出せるし、死ぬまで忘れることはないと確信している。
オフ会の会場前の死角からVCで聞き覚えのある声が聞こえた。
僕が「あれ?ゆんめとタケさんの声じゃね?」と言っている間に
タケさんは「絶対ゴメスとPERINAや!!」なんて話していたらしく
顔なんて全然知らなかったのにお互いに確信を持って出会ったあの瞬間に僕の人生は変わったんだと思う。
その後は何度も一緒に時間を過ごして、もうなんにも遠慮することもない間柄になった時
私のいるA地点
あなたのいるB地点
その間の距離はC
二人を繋ぐ桟橋
みんなを繋ぐTake-Cです!!
というタケさんの口上に対して「クサい!!」と笑った事があったけど、今思えば繋げてもらったのは自分だったんだね。
〜闘病生活〜
そんな出会いからずっと家族のように付き合ってくれたタケさんが脳腫瘍に侵されていることを知った。
きのたけ連合軍所属“舐めTake-C”として参加したオネエJAPANのオフ会でオネエとディープキスをしていたはずなのに…歩行には杖が必要になり…そしてベッドから動けなくなり…
会うたびに痛々しい変化を目の当たりにしなければならない事実は辛くもあったけど、それを毎日見続けるゆんめの気持ちを想像すると今でも胸が張り裂けそうな気持ちだ。
前回のブログ記事は久々にゆんめがVCに登場し、物凄い勢いで泣いたものだから、自宅療養中のタケさんのお見舞いとゆんめの激励の為に山奥のお家にお邪魔した段階で書いたものだ。
それから暫くしてタケさんは余談の許されない状況になり、入院。
その後、関西在住の血盟員として、僕と嫁とこうすけの3人で病院にもお見舞いに行った。
ほぼ身体は自由に動かず、言葉も発せられない状態にまでなってしまったタケさんだったけど、その目から色々なことが伝わった気がした。僕も小さい目を見開いて、同じようにもうここに言葉として書き出したらそれだけで何千文字ともなりそうな気持ちを伝えられた気がした。
こんな世の中でなければもっともっとお互いの気持ちを交換できたのになって、またもやあのウィルスが憎くなった。
結局はほとんど言葉もなく、じっと互いを見た、そんな不思議なやり取りが僕とタケさんとの最後のやり取りだった。慈しみにも似たタケさんのあの表情も僕はずっと忘れることはないだろう。
半年近くの闘病生活を経て、最後はゆんめと息子三兄弟に見守られて、眠るように旅立ったそうだ。
〜報せを受けて〜
早朝にその知らせがあった。
病院からは腫瘍の位置の関係で手術が難しく、回復の見込みがかなり低いという旨を聞かされていたことを僕も知っていたとはいえ、その事実にもショックを受けたしそれ以上にゆんめや息子たちのことが気掛かりでほとんど仕事は手につかなかった。
憎きコロナの影響で翌日からはテレワーク
お通夜も葬儀も参加出来るスケジュール
そのことをゆんめに伝えると最初から最後まで居られるなら居てやってと言ってもらえた。
他の親族にもその方がタケくんが喜ぶからと説明しておくと言ってくれて、その確信に満ちた表現が無ければ流石に血の繋がりがない人間として遠慮したところだったし、当日もいつでも親族の邪魔になるようであれば帰られるように心づもりをしてお伺いした。
結果的に言えば、ゆんめをはじめとするTake-C一家が本当の家族のように接してくれたおかげで、最後の最後までタケさんのそばに居させてもらえた。タケさんの子供たちも、それぞれが本当に親しく接してくれた。長男は率直な今の気持ちや将来の悩みについて話してくれたし、次男は学校のことや友達たちのことを教えてくれたし、三男坊は僕をみるや否や豆乳首ゴメスーと叫び抱っこをせがんでくれた。特に三男坊はまだまだ体重も軽いからまるで戸愚呂兄のように僕にずっと乗っていた。
今まで家族ぐるみの~だとか、家族みたいに~だとか表現してきた事が大袈裟な表現じゃなかったことは、今思えばそれはとても嬉しいことだけど、その時の自分はそんなことまで考えている余裕はなく、一人のタケさんの親友として、ただそこに居たいから居ただけだったように思う。
〜お別れの時について〜
お通夜や葬儀の詳細な内容については省こうと思う。
会場にはいつもイケメンだったけどさらにひときわイケメンに写っているタケさんの遺影と、長い闘病生活ですっかり細くなってしまったタケさんが入った棺があり、二度目のお見舞いが許されなかった数カ月の間の出来事を想像させた。
タケさんだったらきっと泣くな泣くなと言うだろうからか、ゆんめは立派に、時には笑顔も見せながら喪主を務め上げた。ゆんめの家族も同様だ。
僕はといえば…駄目だった。
元より自分が泣き虫なことは自覚しているし、こめかみに感じたことのない痺れを感じるくらいに我慢はしたけれどそれでも耐えきれなかった。
気丈に振る舞うゆんめの声が時折揺れる度に。
クラスメイトに囲まれたタケさんの子供達の表情を見る度に。
そして、会場に訪れた人の数、タケさんが繋いだ人と人の顔をを見る度に、僕は泣いてしまった。マスクがびしょびしょになるくらいに。
本当に驚くくらいの人がタケさんの死を悼み、涙していた。
お通夜が終わり、親族控室に通してもらって、ゆんめと親族と共に一晩過ごさせてもらった。本当に家族のように。
冷え切った夜空の下でタバコを吸い、部屋に戻った瞬間に、ふと、“大好きな故人への手紙としてお使い下さい”という文字が見えた。
僕はこうしてブログを書くことが好きだし、根本的に文字としての情報交換が好きだ。
口から吐き出す言葉よりも、ゆっくりと相手を想いながら紡ぎ出すことができるからだ。
それがどれだけ稚拙なものであっても、文字にはどこか気持ちが籠もるから大好きだ。
丁度部屋も静かになって、タケさんの線香を絶やさぬように焚きながら手紙を書いた。
どうしても、きっと既に伝わってるとは思うけどそれでも、お礼を伝えたかった。
明け方、出来上がったそれは棺に入れてもらったから、その日の午後にはタケさんと一緒に天に登ったはずだ。少なくともこちらの世界では灰になったのを僕は見届けた。
本来、それは僕とタケさんの間だけのものであり、人に見せびらかすものではないと思うのだけれど、ここにあれやこれや書くよりも、それをそのまま見てもらった方が僕とタケさんのありのままを皆さんに伝えられる気がする。
本当はこの先も色々とタケさんへの想いをブログとして書いたのだけれどそれは全部消すことにして、その手紙の内容をここに記します。
〜手紙〜
これがその手紙です。字が汚いので画像の下に文字を書き起こしてあります。
Take-Cへ
タケさん 汚い字でごめんなさい。どしても、もう一度お礼を言いたくて、この手紙を書いています。
タケさんが僕の人生初のオフ会にゆんめと一緒に来てくれたお陰で、それまでは「オフ会なんて危ない所だ」と決めつけていた僕の価値観が180度変わりました。タケさんが居なかったら、今日までゲームで出会った何人もの素敵な人たちとの出会いもなかったのだと思うと、感謝してもしきれません。たかだかゲームと人は言うかもしれないけど、タケさんとの出会い、その後の家族ぐるみの付き合いを与えてくれたリネレボは、僕にとって魔法のような存在でした。
そんなリネレボも今タケさんが居る場所と、ここを繋げることは叶いません。この手紙も、届くかどうか分かりません。もっとタケさんと話したかった、遊びたかったと今は淋しさでいっぱいです。Take-Cというキャラクターだけ残して、行ってしまうなんて、実直なタケさんならまたきっと「ごめんな」と謝ったりするのでしょうが、大丈夫、安心して下さい。最後までこのゲームで遊ぼうという約束は、Take-Cと豆乳首ゴメスという二人のキャラクターが立派に果たします。
今日のお通夜に参列した人の数や表情を見ると、タケさんがこれまでどれだけの人と人を繋いできたのか改めて分かりました。僕もそうしてもらった一人だから、タケさんが今後、どこへ行っても、またそして人を繋ぐだろうと確信します。僕もいつか人生というゲームを終えてそちらへ行きます。ある意味オフ会ですよね。
その時の初オフ会の相手は絶対タケさんがいいな!!絶対!!お願いしますよッ!!
ではいずれまたオフ会で会いましょう。
貴方の親友 豆乳首ゴメス
ゆんめにはタケさんへの気持ちを見てもらいたくて、手紙は棺に入れる前に写真に残していました。
その後、タケさんのことを今一度ブログに書こうと決め実際内容の最後に差し掛かり、あの日あの部屋で書いたこの言葉が一番自分の素直な気持ちだと気が付きました。
本当は手紙の写真もゆんめに送ったら消すつもりだったんだけどね。タケさんがなんか気恥ずかしい気がして。
タケさん!!
ごめんな!!
〜遺したもの〜
夜更けまでお線香の匂いに包まれながら思いを馳せていると、まるでリネレボだったらキャラクターが数字になってしまった時が悲しいように、一足先にこの世界をタケさんが去ってしまったように感じた。
そんな簡単なことではないことは分かってるけど、でももし仮にそうであれば、事実僕たちはゲームの世界で出会い、現実の世界でもう一度であったんだ。
この世界ではもう会えなくても、また別の世界で出会える気がするんだ。
証拠なんか何処にもないけど、もしそうであればタケさんは必ず約束を守る人だ。
まるであの時のように、きっと僕はどこへ行っても声と体は大きくて分かりやすいはずだから「あれは絶対ゴメスやな!!」なんて言いながら出迎えて欲しいなと、切に願います。
ただ僕はタケさんが去ってしまった日からこの人生というゲームにやらなきゃいけないクエストが二つ増えました。
一つは豆乳首ゴメスという僕の分身とTake-Cというタケさんの遺した分身が交わした「最後までリネレボで遊ぼうぜ」という約束を果たすこと。
Take-Cはまだここに居るから。
もう一つは、ゆんめに率いられる3兄弟を見守る血縁はないが親戚よりも親しいおっさんという役割を果たすこと。タケさんとその家族が僕や嫁やこうすけを家族として受け入れてくれたことに報いること。
僕はあの日長男が話した将来への悩みが解決される日まで、次男がいま真っ只中の思春期を脱するまで、三男が葬儀の場でも僕のことを豆乳首ゴメスとフルネームで呼ぶことをやめるくらいには成長するまで、そのロールを果たします。
また涙が出てきて、一体誰に何を言ってるのか、もう分からないけれど、それが僕の役割だと、勝手に思うのです。
〜これを読んでくださった人達へ〜
ただただありがとうございました。
冒頭にもお話したとおり、この記事はきっとタケさんの供養になるとゆんめが言ってくれたから書いたものです。
僕のこの経験を通して、タケさん以外の誰かに何かを伝えたいとか大層な気持ちは特になく、思うことはもう単純に俺とタケさんのありのままを見てくれよって、リネレボには、いや、この世界にはこんな立派で素敵な奴が居たんだぞって事だけです。
僕というフィルターを通して、僕が稚拙に書いた文章だけど、本当に読んでくれてありがとうございました。
〜DJ Take-C最愛の妻ゆんめ 本日の一曲〜