こんちくび!!
マッ乳でーーーーーーーす!!でお馴染み
ジャ乳ーズ事務所所属
コンドーム真彦こと豆乳首ゴメスです!!
ふざけているのは冒頭くらいにして
ちょっと今日は自分の脳内整理のついでにゲームって何かを考えてみようと思います。
きっかけといたしましては
イタリアでは外出するくらいなら家でゲームしてろだとか言ってるのに
香川県では子供はゲームは1時間迄しかするななんて言うものですから
実際我々が言っているゲームってのは何なのってことをもう一度自分なりに考えたくなったんです。
ここで言うゲームとはそのままゲーム関連の総称。我々が嗜んでいるリネレボやプレステなどは即ちテレビゲーム、英語圏ではビデオゲーム、ひいてはその発展形のネットゲームについてです。分かりやすくするためにこれらの狭義でのゲームはコンピューターゲームに統一することにしましょう。(テレビ、ビデオを使用しないゲームが増えている為)
~ゲームは娯楽である~
ゲームは娯楽。これはまごうことなき事実でございます。
これを考えていくのに娯楽を大別していこうと思います。
娯楽にはまず2つの分類があると思います。
娯楽をアクティブとパッシブとに分けてみようと思います。これは決して活発か否かという分類ではなく、参加者自体が他の参加者に影響を与えるものか否かと考えます。
アクティブ=能動的
パッシブ=受動的
双方向性の有無ともいえるでしょうか。
分かりやすく例示してみましょう。
まずもっとも原始的な娯楽としてはスポーツが挙げられるでしょう。
文字で記録されることよりも前から人間たちがスポーツに興じていたことは明らかで、狩猟から発展し、農耕などの安定によって生活に出てきた余力がすなわちスポーツであったわけで人類最古の娯楽や趣味と言えるのではないでしょうか。
また放っておけばすぐ争いを始めて傷つけあってしまう人間の性を解消するべく開発された人類の大発明でもございます。所謂、暴力の転化、昇華ですね。歴史が古く原始的なスポーツほど、“力比べ”に近い形態を取ることからもこれは理解できます。
現在はその形は多岐にわたり、道具やルールは多様化致しましたが、自分(達)と相手(達)に分かれてその技術や体力を競い合うという点では古来から全く変わっておりません。
こちらは所謂アクティブな娯楽と呼べるかと思います。
それと対を為すアクティブな娯楽がゲームです。
世界最古のゲームと呼ばれるのはエジプトのセネトです。
私はルールは全然存じませんが、基本的にはボードゲームなのでしょうか。
バックギャモンのような印象も受けたり・・・
兎にも角にもスポーツが力比べとしたらば、ゲームは“知恵比べ”
一部の例外を除けば、古来のボードゲームは総じてアクティブと呼べるのではないでしょうか。日本の場合は将棋、囲碁などのボードゲームが真っ先に思い浮かびますね。こちらも上記のスポーツと同様に疑似的に戦争を机上で行う訳で、暴力を転化している側面も有しています。またカードゲームなど数字の多寡を多人数で競うゲームとなってくると、暴力の抑制装置たる経済を転化している訳ですね。
経済と暴力の関係性についてはここでは書きませんが、簡単に言えばここでの論調は経済とは暴力を使用しない為のお金という共通ルールの事であり、本質的には経済とは闘争であり、その根本には暴力があると規定します。
そもそもスポーツの試合そのもののことをゲームと呼ぶ訳で
実はその本質は同じなんですね。
共通のルールで競い合う遊びな訳です。
我々の嗜むリネレボや要塞戦は疑似的に戦争を模倣したゲームであり
使用するのはボードではなくスマホですが
ここではアクティブな娯楽として規定出来るかと思います。
本質的には将棋と変わらない訳です。
日夜要塞戦に励む皆様にはなんとなく感覚的に分かりますよね。
~パッシブな娯楽とは~
アクティブな娯楽がスポーツ、ゲームだとしたら
パッシブな娯楽とは何でしょうか。
最も分かりやすいもので言えば物語でしょうか。テキストで綴られる場合もあれば、口頭で語られることもあるでしょう。テキストで綴られれば小説やエッセイなどの書物になり、それを読むことは読書となります。
語り手から聞き手、または読み手への一方通行の娯楽。
通常の場合は受け手が大多数であり、娯楽の享受者となります。
語り手から聞き手へ一方通行に娯楽が提供されていますよね。
こういう娯楽をパッシブと類してみましょう。
このパッシブな娯楽を簡単に言えば、受け取り手が楽しむ以外全く何もしない遊びと言えます。
もう一つの原始的な娯楽としては音楽も挙げられますね。
演奏者から聴き手へ。
分かりやすいものならば、オーケストラから観客へ。
音楽の場合は参加者も演奏者の一部に組み込まれることはありますが、その場合聴き手は不在となります。例えば祭りですね。
同様に例えば絵画、書道などもパッシブな娯楽として観ることが出来るかと思います。
ただこの前者と後者には違いがあって
前者は言語を使用して享受者の脳内という最も原始的なバーチャル空間にイメージを創出します。
後者は先に提供者の脳内にあるイメージを楽器や絵筆を使用して現実空間に創出します。
共通していることはイメージの創出。
即ち空想の共有や現実化な訳です。
よく「趣味は妄想です」という方がおられますがこれは最も効率的かつ原始的な娯楽ということが出来るんですね。自分の思った通りに、何の道具もなく創出することが出来るわけですから。
この提供者が享受者に与えるという形を取るパッシブな娯楽は相互に影響、融合しどんどん発展していきました。
例えば物語と音楽が融合して“詩歌”、さらに発展して“演劇”
例えば絵画を発展させて“写真“、“写真”を発展させて“映像”
そしてその全てを組み合わせて“映画(ドラマ)”
そして総じてそれらをエンターテイメントと呼ぶ訳です。
エンターテイメントとは即ち空想の現実化と共有のことなのです。
更には空想の現実化の事をクリエーションと言いますね。
アイディアを形にして享受者に提供する人々のことがクリエーターな訳です。
アクティブな娯楽にはクリエーターが存在しませんが、パッシブな娯楽には必ずクリエーターまたはそれに準ずる立場の人間が存在します。
ここでコンピューターゲームの存在とクリエーターの不在の命題は矛盾しますが、それについては後述します。また例えばトランプやなんなら人生ゲームなどのルールを作成した人は太古のゲームにさかのぼっても恐らくは存在はしますが、ゲーム自体をクリエイションするという表現ではなく、ルールメイカーと呼ばれることの方が多いですよね。
但し不思議なことにエンターテイメントは発展すればするほど良いという訳ではないんですね。
現代に於いても絵画は重要な芸術の一旦を担っていますし、音楽だって日夜発展的なものが発表されていながらも俳句だって嗜まれ続けていますね。
より複雑化はしたとしても、それで価値や魅力が倍増しているわけではないのです。
そして方法論としては複雑化していますが、発展的な娯楽の方が一般的な理解度が高い、とっつきやすい傾向があります。
テレビは見るけど、クラシック音楽はいちいち聴きに行かない人が殆どですよね。
これは何故でしょうか。
誰しもが妄想を趣味に出来ないからこそ、或いは出来る人だって一人で妄想するだけでは一生は楽しめないからこそ、このゾーンは娯楽であるのです。
そして想像とはとても難しいことなのです。
現代に近づいて、エンターテイメントはよりリアルになって来ています。
そうなんです。
リアルな方がとっつきやすいんです。
身に覚えはありませんか。
映画ってとても分かりやすいじゃありませんか。きっと文章よりも。
だから小説が映像化されて持て囃される。
或いは逆に、そういうリアル化されてしまった作品やアーティストが大衆化してしまったという悲嘆を聞いたことはありませんか。
リアルだからいいという訳ではありません。
ただ娯楽は分かりやすい方向に進化をしてきたのですね。
またスポーツやゲーム自体を観戦するということもパッシブな娯楽でしょう。
こちらも現地に行くしかなかったものが映像として、なおかつリアルタイムにて提供できる技術が発展して大衆的なものとなりました。
また少し特殊な娯楽ジャンルとして“旅行”が挙げられます。
その目的によっても様々ですが、旅行は現実世界のものを観るという“空想の共有”ではないものです。ただしこれが娯楽として一般化したのはやはり現代技術によって移動という制約から解放されたことが娯楽としての成立の背景にあるので今回はパッシブな娯楽として類しましょう。
ここまでは一般的なお話です。
~ゲームだけがまるで異質~
ここまでのお話はコンピューターゲーム登場までのお話です。
ゲームという“アクティブな娯楽”は対岸のスポーツを差し置いて異常なまでの進化を遂げました。
娯楽の中での異質な存在こそが“コンピューターゲーム”です。
その初出や黎明については諸説あるようですが、概ね1950年代がその原型たちの出現年代だそうです。
私が存在を知っている最も古いコンピューターゲームはスペースウォーというシューティングゲームです。
なんとウィキペディア曰くは発売は1964年!!マサチューセッツ工科大学の学生さんの開発だそうです。
その後、競技スポーツやテーブルゲームをコンピューターゲームに落とし込む試みも行われました。或いはテトリスのような革新的なパズルなどもコンピューターゲームの傑作でしょう。我々が今興じているリネレボの祖先を考えれば、テーブルトークRPG(その歴史やルールや成り立ちは割愛)をコンピューターゲームに落とし込んだウィザードリィなども初期コンピューターゲームタイトルの代表として考えられるのではないでしょうか。
いずれのタイトルも元々はテーブルゲームや競技スポーツの再現、落とし込みな訳です。もっと踏み込んだ言い方をすれば、先ほど二分類しましたジャンルの前者、“アクティブな娯楽”をコンピューターで再現するという試みですね。
但しここで矛盾が生じます。
アクティブな娯楽とは即ち自分と相手が対等に存在する娯楽の事だったはずです。
コンピューターゲームの場合、対戦型を除き相手はいません。いや、対戦型もそのほとんどは基本的に一人プレイを前提として開発されていました。だって例えば将棋をするならコンピューターを持ち込むよりも将棋盤持ち込んだ方がずっと小さい時代ですからね。でも対戦相手は持ち込んだり、好きな時に用意することが出来ませんから。
逆にこのことから分かるはずです。
コンピューターゲームは従来のアクティブな娯楽では成しえなかった対戦相手、或いはその代替となる乗り越えるべき課題の創出をコンピューターを使用して行ったんです。
この点が非常に異質なんですね。
私を含め多くの日本人の認識の上でコンピューターゲームが一般化したのは
1985年発売のスーパーマリオブラザーズでございましょう。
クッパという仮想敵とクッパが配置した困難を主人公マリオとなって乗り越えるゲームですね。
当然のように対戦相手はコンピューターです。
但し対戦相手が仮想敵であること以外は先に述べたアクティブな娯楽であることには何ら違いはありません。
例にもれず絶対的で普遍的な共通のルールが存在します。
ゲームの父と呼ばれる任天堂、横井軍平氏もゲームには必ず納得感がなければならないと話されていたと書籍で読みましたが、言い換えれば状況や場面によってルールが変わってしまってはならないということでもあるかと思います。
マリオの場合は敵に横からぶつかったり、画面外へ落下すると死亡。一部の敵を除き上から踏めば打倒。そして左から右に向かって進行しゴールを目指す。
なんとシンプルなルールでしょうか。
なんなら野球よりわかりやすい。
リネレボは…横井さん基準ではあまり高得点は望めませんね。
理不尽の塊みたいな部分ありますもんね。
ルール勝手に変わるし。
また冒頭でお話したようにスポーツやゲームの根底には暴力の代替手段としての側面があると書きました。
マリオには確かにクリボーを踏みつぶして殺す、キラーに撃ち抜かれて死ぬという暴力がマイルドに描写されています。もちろん、他の多くのタイトルにもです。
例えばテトリスには暴力描写はありませんが、自らの手で消滅させるという概念的暴力が存在します。
例えば動物の森はあんなに平和なゲームじゃないかと言われれば経済というお金の暴力をあそこまで誠実に描いているゲームはないと言えます。
人間が楽しいと感じることの裏側にはほぼ暴力が存在します。あなたが達成感を感じる時ってなんですか?目標を達成した時ですか?成長した時ですか?誰とは特定しなくても、人よりも秀でたりした時ではないですか?これは元来人間のあり方として仕方のないことなのです。
厳密には暴力では語弊があるのでしょうが、動物として見た時は相手に勝ったり、相手を食べたりすることで生存してきたわけで、それらを由来にする全ての事象を暴力として語っている訳であって、どうぶつの森がかわいいどうぶつ達をぶっ殺したり経済的な破綻に追い込むゲームだとは思っていないので悪しからず。
またどうぶつの森は人に優しくしたりされたりというもう一つの喜びの側面が大きいいいゲームだと聞いています。リネレボと一緒ですね。
アクティブな娯楽の根底にあるのは相手を打ち倒すことである以上、暴力とは切っても切れない関係なんですね。コンピューターゲームも仮想敵を打ち倒す、或いは課題達成が目的である以上、多かれ少なかれ暴力的な部分は存在ます。
これは致し方のないことなんです。コンピューターゲームの黎明期からスペースウォーですもん。戦争してますもん。
ここに一石を投じた“moon“という名作タイトルがございますがこれについては今回は触れません。
いいゲームなので調べてみてね。
~更なるリアル化、大衆化、そしてネット化~
これでコンピューターゲームが過去に存在しなかった特殊な娯楽として創出されたことはお話出来たかと思います。
整理しますとコンピューターゲームとは
従来のアクティブな娯楽に必要不可欠だった“相手”をコンピューター化(無人化)した娯楽ということになりますが、実際にはパッシブな娯楽として見ると提供者(ゲーム開発者)が享受者(プレイヤー)に対して作品を提供しているという見方も出来ます。
皆さんには好きなゲームタイトルがありますか。私には何本もありますが、そのいずれも映画作品を説明するのと同じように説明が出来ます。
特にRPGなどはこの点が顕著で、戦闘などにはゲーム要素も盛り込まれていますが、どちらかと言えばストーリーテリングが主題のゲームタイトルも多いですね。特に近年の作品になればなるほどこの特徴は顕著になるかと思います。
RPGを一つのパッシブな娯楽として考えたときは、物語、音楽、映像の融合です。
そこにプレーヤーの意思やそれに基づく操作を介在させればゲームであり、逆にゲームからプレーヤーの意思を除けば映画(に近しいもの)になります。
メタルギアシリーズでお馴染み、近頃私も彼のデスストランディングに大ハマりしたかの有名な小島秀夫さんもゲームと映画の類似性について言及されていますし、その垣根の消滅について語られています。
したがって最終的にコンピューターゲームが成した一つの大きな娯楽史に於ける偉大な功績は、娯楽のパッシブとアクティブの垣根を取っ払ったこととも言えるかもしれません。
その証拠にアクティブな娯楽の延長であるはずのコンピューターゲームに於いてはゲームクリエーターが存在しますよね。
発展しすぎて従来の娯楽の分類が出来なくなってきているとも言えるでしょう。
また対戦相手は目の前のリアルな相手に任せて、共通のルールだけをゲーム内に求めた形として格ゲーを主体として稼働していたゲームセンター、或いはNINTENDO64くらいから一般化した4人同時オフラインプレイなど語りたいことが山ほどありますが、この辺りは今回は別の文化として割愛します。少なくとも家庭用ゲーム機に於いて、ほぼ全てのタイトルが1人プレイ不可ではないという点が重要です。
そしてパッシブな娯楽で説明したお話に戻りますが、コンピューターゲームの進化はその他の娯楽の進化が微々たるものに思えるほど急速に進化しています。
それはコンピューターグラフィックス技術の進歩とも言えるでしょう。
勿論、映画だってCG技術に於いて各段の進化をしていますが、それは実写の間の一部のシーン。或いは全編CGがない映画だったらば進化している要素にもなりません。
逆にゲームは全てがCGな訳です。CGの進化は即ちゲームのビジュアルの進化に他なりません。
マリオだって最新版はこの通りです。
先にお話しした通り、リアルな方が人はとっつきやすいのです。
大衆はよりリアルを求め、ゲーム会社はそれを提供します。
その結果が現在の市場です。
様々な娯楽の要素を取り入れて、刷新されて、なおかつプレイヤーが操作し意思を介在させられる娯楽がコンピューターゲームなんです。
人気にならない訳がありません。
ゲーム人口は増えに増え、現在の子供たちはほぼすべての子供たちが手にする娯楽となりました。
そこで問題になったのは先に述べた暴力問題
勿論マリオシリーズは現在だって暴力問題で取りざたされることはありません。クリボーがポテッと死ぬだけですからね。
ただ、実写と見紛うレベルのCGが実現可能になったらば戦争を取り扱うゲームはどうか、銃撃戦を取り扱うゲームはどうか、グロテスクなホラー描写はどうか。
相手がコンピューターになったからぶっ殺しても問題がなくなっただけの話であって、やってることは過去と変わらないのです。
但しグラフィックスが初代マリオブラザーズからご覧の通りのレベルに向上することによって、その本質にあった暴力要素が如実に表現されるようになってきただけの事なんですね。或いは敢えて写実的な暴力表現を過激にすることが可能になってきたということでもありますし、それを求めてしまう人がいる事も仕方がないという私見は既にお話しした通りですね。
そして同時に映画はパッシブな娯楽だけど、ゲームはアクティブな娯楽でもあります。
映画だったらスクリーンでどれだけ暴力が展開されても所詮他人事。
だけどプレイヤーが操作できるゲームだったら・・・?
極端な話、バーチャルな人殺しが体験できるわけです。
しかも、毎年毎年どんどんリアルになっていく訳です。
そりゃあ焦りますよね。
ゲームをやったことがない人はもちろん
文字通りのコンピューターゲーム時代で止まっていた人も
少年時代は初代マリオブラザーズで熱狂した人も
ゲームは危ないものだって認識する人も増えてきますよね。
将棋だって歩は突き詰めれば歩兵な訳で、そりゃもう簡単に小学生棋士だって勝つためにバンバン犠牲にして殺してる訳なんで、私個人としては何を今さら血を緑色にしようが、人体欠損を避けようが同じだと思いますがね。
いや決して子供たちに暴力表現が好ましい影響を与えるとは思いませんが、自分たちがその娯楽を享受している以上はその楽しさは否定できないというのが私の意見です。
まぁそれはいいとして時代は高速インターネット時代に突入します。
~インターネット同時通信時代へ~
インターネットによってありとあらゆる娯楽は変容しました。
映画はVODとなりいつでも見られるようになりました。
書籍は電子化され図書館は要らなくなりそうです。
YouTubeが台頭しテレビの役割を奪うようになりました。
とりわけ最後のYouTubeに代表される動画サービスが与えた変化はとても大きくて、今までパッシブな娯楽を享受するしかなかった大衆がアイディアやスキル一つで娯楽の提供者側に立てるチャンスが格段に増えました。
この時代に至るまで、娯楽の提供者は当然ながらそれによってお金を稼ぐ必要があったんですね。いい娯楽を提供するには時間がかかる。
ただ、現在は簡単に無料で動画を"配信"することができるようになりました。
誰もがクリエーターになれる時代がやってきた訳ですね。
好きなことで、生きていく。
YouTuber達が語った言葉は正にこの変容を一言で説明している文言なんです。
ただ、結局のところ、仮に一人でYoutuberとして大成しようと思うと、クリエーターのセンスもエンターテイナーのセンスも必要になる訳で本当に一握りの人間にしか出来ることではありませんね。
結局Youtubeには職業エンターテーナーたる芸能人やクリエーション、プロモーションのプロ集団がついていることからもあり方自体が変わっていないことは明白。むしろ、娯楽の多様化によって提供者としての大成は難しくなったのかもしれません。好きなことは出来ますけど、生きてはいけないよ?ってのが実際なんでしょう。
このあたりのお話は語られつくしている部分だと思いますし、ネット関連の及ぼした変容については多過ぎてここでは書き切れませんが、娯楽のあり方自体が変わった、提供者としての楽しみ方が加わったと言う変化はとても大きなものですし、私もその楽しさをほんとひとかじりを味あわさせてもらっている次第です。
そしてコンピューターゲームもそれに付随して進化。プレイ画面が当たり前のように動画サイトに載せられている事はもちろん、世界中のどこにいる人とでも瞬時に、同時に対戦出来るようになりました。
ここで逆転現象的な変革が発生します。
元々コンピューターゲームは用意するのが大変だった対戦相手を創出する革命を起こしたのに、対戦相手が簡単に見つけられるようになったんですね。
対戦相手は世界中にいる。
じゃあコンピューターゲームは不要か?
答えはNoですね。
むしろますますの進化を遂げているのはご存知の通り。
ただ日本のゲーム会社は軒並みグラフィック云々よりもこの視点の欠如に於いて置いてきぼりを食らった印象です。
ただ従来型のコンピューターゲームはネットゲームに駆逐されるのか?
これも答えはNoですね。
個人的な話にはなりますが
ハマり過ぎるので買わないと決めていたPS4をデスストランディングのために購入し、新しい従来型とネット型の間のゲーム体験をしました。
その後、レッドデッドリデンプション2にもどハマりして完全にオフラインながらまるで西部劇の中に入り込んだような体験をしました(RDR2はオンラインモードもあります)。
またネットゲームだと3年近くとあるゲームなどハマりしてます。
リネージュ2レボリューションって言うんですけど、知ってますか?
〜リネレボの革新性とゲームの今後〜
ここまでのお話は大雑把に飛ばしてしまいましたが、MMORPGの登場もまたコンピューターゲームに於ける大革新でした。
その黎明期は一部のゲーマーから愛好されるジャンルに過ぎなかったのですが、高速インターネット時代よりも随分前に、対面を必要としない形の大人数参加を可能にしたという革新を打ち破っていたのがMMOです。
比較的ゲームスピードが遅いRPGというジャンルだからこそ、早い段階でのネット化が可能だった訳ですが、そのオンラインとの親和性の良さやその面白さについては当ブログの読者さまには語るべくもありません。
更にはそれをモバイル化していつでもどこでも出来るようにしたのがモバイルMMORPGな訳で、その最大級のタイトルが我々が愛してやまないリネレボな訳です。
いや、愛してやまないってのは、うん、言い過ぎかも。
まぁすなわち、もう我々はそれなりにゲームの最前線地点でゲームをしている訳なんですけども、ただ面白いことにリネレボってめっちゃ年齢層高いですよね。
当時最先端を駆け抜けていたMMORPG世代が中心になっているからなんでしょう。
今やウイイレですらリニアに繋がって、お友達の家になんていかなくても良いんですから、わざわざペースの遅いRPGじゃなくても良いんですよ。特にゲームの歴史を踏んでいない若い世代達にとってはね。
まぁそれは私たちはリネレボが好きで、彼らとは違うって話でもうそれはいいとして、私がこの話で書きたかった事は2つ。
1つ目はゲームって何って話。
イタリアでは卓球やめて家でゲームしろと言われる。
日本だって、コロナウィルスが流行る前からここんところ暑過ぎるから、或いは公園で人様に迷惑かけるから外で遊んじゃダメなんて話もあったりで、まぁそうなると子供を家におとなしくつなぎ止められるコンテンツとしてゲームはとても優秀ですよね。
方や香川県ではゲームは1時間だって制限される。
理由は様々書いてあるけど、まぁ簡単に言えば危ないからだよね。
どっちなんだよって話だよね。
いやきっと、多くの人にとってはゲームは危険だけど新型コロナウィルスはもっと危険だから大人しく家でゲームしてなさいって話であって、危険なものが去ればまたゲームは危険なものリストに入ってくるのでしょう。
何勝手なことしてくれてるんだよと思うわけです。
異常なスピードで進化したコンピューターゲームについてこれていない世代がゲームを規制することに何も意味はないです。
いや、危険ではないというつもりではないんです。
進化した結果、無敵の強さを誇るレベルのコンテンツと化したゲームのせいで必要な勉強や適切な運動を怠る子供達も居ます。
またネットがもたらしたもう一つの変容として課金型ビジネスの台頭もあったりで、これも大人にだってなかなかに厄介な問題です。
語弊を恐れずに言えば、リネレボだって金で買った戦闘力で人に暴力を振るうゲームですよ。
乳首とか名乗る馬鹿もいるし子供に無制限にやらせたら危ないに決まってるじゃん。
でもそれは対岸のスポーツだって同じで、大人がいない場所で小学生達に総合格闘技やらせる馬鹿はいないでしょ?それと同じです。
やってもないのに危ない危ない言って規制されんのはごめんだって話で、使い方は各自で相談しろよじゃダメなのかと。
かと言ってちょっとウィルス流行ったら家でゲームしておけなんていうのも変だろと。
まぁすべての人がそんなダブルスタンダードになってるわけでもないんですけど、仮に世の中がその論調を許すのであれば結局お前ら子供のこと全然考えてねぇじゃねぇか!!って話で、ゲームのこともぞんざいに扱ってんじゃねぇぞ!!って話なんですよ。
進化が急激過ぎて、今までに無かった娯楽のあり方を提示し続けているコンテンツだからってゲームを否定するのは間違ってる。
寧ろ古代エジプトから営々脈々として続いてきたゲームの文化として認めなきゃこの問題は解決しないよってことが一つ目の言いたいこと。少なくとも適当にその場しのぎで便利に使うんじゃなくて、ちゃんとアクティブな娯楽として捉えた上で、しかもネットを介して人に影響を与えたり与えられたりするって部分も理解して、丁寧に使いましょうねって話だし、パッシブな娯楽として提供者(ここではゲーム関連会社)のことを悪者扱いするんじゃなくてクリエーターの集団として捉えましょうよってことですね。
そしてもう一つはリネレボっていうレボリューションなゲームをやってる我々。色んな世代の人間がいるけど結構いい年齢の大人が多い。
そして大人達がこのゲームを通して色んなことを学んでいる様を見たからこそ、進化が早過ぎてついていけないようなゲームっていうコンテンツと子供がどうやって付き合っていくべきなのかってのは示せるんじゃないかなってこと。
リネレボは文化ですなんて言うつもりさらさら無い。寧ろ大衆の小さな娯楽の一つですよ。要らない人には要らないし、世間にとってはくだらないお遊びです。
でもそれって過去の娯楽全部そうじゃない?ってことなんですよ。
規制条例やら、コロナウィルスやらで、やたらと話題の矢面に立つ機会が増えてるゲーム業界ですが、ちゃんと進化の過程を見てきた人たちの意見も聞いてくれって事と、もう大人達だって1ヶ月先どうなるかも分からない世の中だけどだからって子供達に適当にゲームを与えるだけってのはやめてくれって事と、ちょっと大人な世代のリネレボユーザーなら俺の言いたい事分かってくれるかな?ってのが2つ目の言いたい事でした。
少なくとも俺たちが言ってる、或いはやってるものはゲームであって
娯楽の自粛が求められる世の中だからこそ、自粛しなくても楽しめる娯楽であるゲームって何なのって理解しなきゃなって思う次第です。
もう本当、全然分かんない世の中だけど、せっかくゲームだろうがオンラインだろうがなんだろうが、人と人が繋がって出来たコミュニティが私の目の前にあります。
これからも私たち、助け合って行ければなお幸せです。
という事で私の個人的な1万字に及ぶ脳内整理にお付き合い頂き誠にありがとうございました!!
しからば!!
またよろ乳首ーーーーッ!!
~DJほんとここまで読んでくれた人感謝 本日の一曲~